ナイチンゲールのビデオ鑑賞

課題として、フローレンス・ナイチンゲールについての感想文になります。ナイチンゲールのビデオを鑑賞後の感想文です。ナイチンゲールの生涯と要点などを要約しながら。

フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日にフィレンツェで生まれる。

当時、女性には教育は不必要という風潮があったが、父ウィリアムスは女性にも教育が必要だという考えから、姉とともに語学、哲学、天文学などの本格的な教育を受けさせた。そんな中、17歳の時「私の所に来て奉仕しなさい」という神のお告げを受ける。しかし、そのときはまだ何をすればよいのか分からなかった。

20歳で看護師を目指すと決意をしたが、当時看護師はメイドと同等の扱いで上流一家のナイチンゲールは、母と姉に強く反対された。その後、近くの病院で病気の人やけが人の世話をしながら過ごし、1847年ローマの保護所に移り、所長をしていたシドニー・ハーバートと出会う。その後1851年、姉の看護をするという名目で、ドイツのカイゼルスベルト学園に入り、看護を学ぶ。

1854年クリミア戦争が起こり、当時軍務大臣になっていたシドニー・ハーバートに頼まれ、38人の看護師をつれ、トルコのスクタリに向かった。

戦場での看護を通して、人の命を救っただけではなく、女性に対する偏見も打破し看護という職業の地位も確立させた。

この時行った看護は、軍病院内に清潔な病床と作り、衛生環境を整え、死亡。

クリミア戦争が終わり、寄せられた多くの基金で、1860年ナイチンゲール看護学校が設立される。(St.トーマス病院内)
現在でも、ナイチンゲール病棟が残っており、ナイチンゲールが考えた理想的な病室になっている。

看護について学び、卒業後はグループを作り、各地で看護教育を広めた。しかしレベルの低い看護師も出てきてしまい、1886年に基準を定めて登録をするように意見が出る。ナイチンゲールは、まだ機が熟しておらず、また技術者のように試験で判定はできないと反対した。
その後、病にかかり、ベッド上で過ごすことが多かったが、70歳まで著作活動に力を入れ、150にも及ぶ文献を残している。

看護覚え書のレポート

そして1910年8月13日90歳でその生涯を終えた。

時代は進み、技術や人の生活も変化しているのに、100年以上前にナイチンゲールが考えた事が、今現在でも行き続けていることに驚いた。もしもナイチンゲールがいなかったら、現在の看護は成り立たなかったかもしれない。
周囲に反対されてもやり遂げた意思の強さ、人をまとめ動かすリーダーシップを見習い、私も学んでいきたいと思った。

参考:感想文レポートの書き方

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